ロシアのクーデターの成否を分ける「focal point」
クーデターが成功するためのもっとも重要なことはクーデターが成功することである。すなわち、過去に成功の歴史があることが、クーデターの成功確率を高める。 しかし、過去は変えられない。成功の可能性を高めるために今、何ができるだろうか。 第1は、衆目の一致するクーデターのリーダーがいることである。これは、不完全な謀議で(謀議というものは不完全な情報交換しかできないものだ)、行動を一致させるための方法である。 明日、渋谷で待ち合わせようとだけ約束した時、いつどこに集まるだろうか。正午ハチ公前になるのではないだろうか。ノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者トーマス・シェリングは、皆がそうなるだろうと思うことの中心をfocal pointと呼んだ。 武勲赫々たる将軍で、将校、兵士の人望も厚い人間がクーデターを起こせば成功する確率が高くなる。 これに対するソ連共産党とスターリンの戦略は、「いくつもの点を作る」ことと、「目立つ将軍の粛清」でfocal pointを消すことであった。
軍隊を弱体化させるのは「独裁者の悲しき性」
「いくつもの点」とはなにか。 様々な軍隊を作って、そのトップ同士を牽制させることである。プリゴジンのワグネルもその軍隊の一つなのだろう。もちろん、これらは軍隊を弱体化させる。 典型的な例は、ドイツに侵略される直前のソ連軍である。1941年6月22日、ナチス・ドイツがソ連に侵攻した時、ソ連軍は緒戦においてあまりにも脆弱だった。ナチス・ドイツ軍330万人がバルト海から黒海までの3000キロの戦線で一斉に攻撃にかかった結果、開戦わずか1週間でソ連領内400キロの地域に突入されていた。モスクワまで後700キロである。 ソ連軍がこのように弱体だったのは、クーデターを恐れるスターリンが、ソ連軍の将軍や将校を粛清しすぎたからであり、また、度重なる警告にもかかわらずソ連軍に警戒態勢を取らせなかったからである。 1937年から38年にわたって3万4301名の将校が逮捕、もしくは追放された。 そのうち、2万2705名は、銃殺されるか、行方不明になっている。また高級将校ほど、粛清の犠牲者が多くなっており、軍の最高幹部101名中、91名が逮捕され、うち80名が銃殺された。軍の最高階級であったソ連邦元帥も当時5名いたうち3名が銃殺された。指揮を執る人間がいなければ、軍隊は当然に弱まるものだろう。 さらに、スターリンは、自ら命じた粛清によって、おのれの軍隊が弱体化してしまったことを承知し、フランスを降したドイツ軍にソ連軍が太刀打ちできないことを認識していたという。そこで、スターリンは、ドイツの侵攻はないものと思いたがった。
スターリンは、1941年の初夏にドイツがソ連に侵攻するというソ連スパイ網からの警告を無視した。その中には、日本にいたスパイのゾルゲからの警報も含まれていた。 そもそも、330万人もの戦車や大砲で武装された軍隊が、何の予兆もなしに侵攻できるはずはない。ところがスターリンは、緒戦に敗れたのはソ連の将軍が敵に通じていたためだという話をでっち上げて、ドミトリー・パヴロフ上級大将他の将校を解任、人民の敵として処刑した(以上は、大木毅『独ソ戦』2-8頁、35-36頁、43-44頁、岩波新書、2019年、による)。 プーチンも同じ戦略を採用している。 ショイグ国防相、ゲラシモフ参謀長というプリゴジンによれば無能な人々を軍のトップに付けていた。プリゴジンによれば有能なスロビキン将軍は、2022年10月にウクライナ侵攻の総司令官に任命されたが、23年1月には副司令官に降格された。さすがに銃殺するには至っていない。プーチン体制はスターリン体制よりは文明的になっているようだが、プーチンの目的は、スターリンと同じfocal pointを消し去ることだっただろう。 しかし、これがプリコジンのクーデターにつながった。今後、ロシアでクーデターが成功するには、focal pointが次々に現れていくかどうかが、ポイントだろう。
クーデターに必要な、優秀な将軍
第2に、クーデターが成功するには、クーデター後にどうなるかの見通しが必要になる。内戦は誰にとっても嬉しくない。 2011年のアラブの春から始まったシリア内戦では、人口2150万人の国で、50万人が死亡、660万人が難民となった。その結果は、再び残虐なアサド政権に戻っただけだった。 プーチンを除去して、次は誰まで除去するのか、除去する人間が多ければ、除去される可能性の高い人間は最後まで抵抗するだろう。人間と言ったが準軍事組織である。これを避けるためには、誰までが除去されるかの見通しが立ってほしい。 これも過去の成功したクーデターがあるほど見通しが立てやすい。 何も変えないから抵抗するなというのは、過去に実際に変えなかった事実があれば受け入れられやすい。日本で言えば、所領安堵である。降伏すれば、これまでの領地は保証するが、抵抗したら皆殺しだぞという方策である。 すると再び、クーデターは成功しないから成功しないということになる。これを打破するのは、並みでない能力の将軍が必要になる。しかし、ロシアではそうした将軍はいなかった。 今回、プリコジンの乱に加担したとされるスロビキン将軍は、シリア内戦でアサド政権を支援し、民間人を虐殺し、城郭に囲まれた古代の美しい都市アレッポを消滅させたことでも知られている。 残虐な方法で勝利を得たスロビキン将軍だが、プリコジンの乱後はプーチンに簡単に逮捕されてしまったようだ。マフィアなら、他人に残虐なことをした人間は(そうしていない人間ですら)、いつ残虐なことをされるかと分からないという世界にいることを自覚して生きている。 スロビキン将軍には、マフィアの用心深さが足りなかった。 スロビキン将軍の降格と逮捕は、ソ連共産党の伝統的なクーデター対策に則ったもの、つまりfocal pointを消し去ることだっただろう。 しかし、プリゴジンも、自分はfocal pointになれると思っていたに違いない。
スロビキンが示した「focal point」の可能性
第3に、クーデターに大義があれば、focal pointになる。ウクライナに勝てないことが理解され、戦争の無益さがロシアの一般大衆にも理解されるようになれば、人々は戦争を止める指導者を欲するだろう。 第一次世界大戦で、ドイツとの戦争に疲れてロシア国内に厭戦気分が高まった時、戦争の継続を望んだ臨時政府に対し、すぐさま停戦するとしたレーニンが権力を握った。戦争の停止がfocal pointになった。 これはロシアと同盟していた他の諸国の憤激を招き(ロシアが勝手に停戦すればドイツはフランスとの西部戦線に戦力を集中できる)、また、ドイツに有利な条件での停戦を余儀なくされたが、それでもレーニンは権力を握った。 今回、ウクライナは、ロシア領内には攻めてこない。第一次世界大戦であったような、敗戦国への過酷な賠償も求められない。 スロビキン将軍は、シリアでの虐殺で名を上げたが、ウクライナ戦線では、むしろロシア軍の戦線を後退させ、戦力を温存して防御線を固めたことで軍事のプロたちから評価された。戦線の後退から、「敵はモスクワにあり」と宣言するまで、わずかな違いしかない。今回はつぶされてしまったが、スロビキン将軍は、「戦争の勝利」ではなく、「戦争の停止」がfocal pointになる可能性があることを示したということだ。
粛清されてもfocal pointは生まれる
クーデターはそう悪い解決策ではないが、そう簡単な解決策でもない。 特に、ソ連共産党は、クーデター鎮圧の残虐な方法のプロであり、プーチンもその方法を熟知している。しかし、レーニンは、日露戦争では、戦争を革命に転化できなかったが、第一次世界大戦では成功した。 戦争と粛清が続けば、人々は鍛えられ、必ずクーデターのfocal pointが生まれるだろう。 他の関連記事『プーチンの大誤算…ここにきて「プリゴジン」にかわって「ルカシェンコ」がプーチンを脅かす「危険過ぎる存在」となっている「ヤバすぎる理由」』では、いま起きている“もう一つの異変”について詳報しています。
原田 泰(名古屋商科大学ビジネススクール教授 元日本銀行政策委員会審議委員)