19世紀、マグダラの戦いに勝利した英国は、エチオピアから若き王子を英国へ連れ帰った。アレマエフ王子はヴィクトリア英女王に気に入られ、幸せな生活を送ったとされるが、歴史家の見解は違うようだ。 【画像】生前のアレマエフ王子の姿 アレマエフの遺骨はいまも英王室のウィンザー城に眠っているが、エチオピア政府は「誘拐された」王子の遺骨返還を強く求めている。
7歳で英国へ渡る
彼は英国王室の寵児だったのか、それとも戦争捕虜だったのか──。 エチオピアの若き王子が、故郷の東アフリカから8000キロ以上離れた英国のウィンザー城に埋葬されるに至った経緯は、いまだにその波紋を広げている。王子の遺骨の返還を拒んだ英王室は批判にさらされ、英国は再び植民地時代の過去に向き合うことを余儀なくされている。 ディジャズマッチ・アレマエフ王子は、アビシニア(現在のエチオピア)の王位継承者だった。1868年、彼の父で皇帝だったテオドロス2世は、英国軍との「マグダラの戦い」で降伏よりも自ら命を絶つことを選び、多くの国民から英雄として称えられた。 敗戦後、アレマエフ王子は母親と一緒に英国へ連れて行かれることに。だが母親は航海途中で亡くなり、孤児となったアレマエフは7歳で英国の地を踏んだ。 王子は英国陸軍のトリストラム・チャールズ・ソーヤー・スピーディ中尉の庇護下に置かれ、サンドハースト王立陸軍士官学校など英国の名門寄宿学校で学んだ。 当時の英国君主、ヴィクトリア女王もアレマエフのことがすっかり気に入り、彼の教育費を負担し、経済的な後ろ盾になった。英王室のロイヤル・コレクション・トラストの記録によると、「女王はその子供に大きな関心を寄せ」、それがひいては「孤児となった王子に対する世間の大きな関心」につながった。 ヴィクトリア女王の孫娘であるヴィクトリア王女が、幼い頃にウィンザー城で王子と遊んでいたとの記録もある。
墓碑銘に刻まれた言葉
だがそのように特権を享受しているように見えて、多くの歴史家によると、若きアレマエフは英国で悲惨な生活を送っていたという。歴史家たちが言うには、陸軍士官学校での王子は「ひどく不幸」で、人種差別を受け、祖国へ戻りたいという願いも無視されていた。 結局、アレマエフは胸膜炎を患い、18歳で亡くなった。遺体はヴィクトリア女王の要望により、ウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂に埋葬された。その墓碑銘にはこう書かれている。 「私はよそ者だったが、あなた方は私を受け入れてくれた」 だがそうした植民地時代の「美談」は近年、ことに血生臭い戦争の文脈において疑問視されている。英国軍兵士1万3000人は、当初テオドロス2世の捕虜となったヨーロッパ人の人質を救出する目的で派遣されたが、勝利後に大規模な略奪を行い、略奪品の多くは大英博物館などロンドンの博物館に収蔵された。 多くのエチオピア人はいまも、アレマエフを幼いときに祖国から「盗まれた」王子だと語り継いでいる。