「戦友会」と聞いてピンとくる人は、どれだけいるだろう? 慰霊や親睦のために作られた元将兵の集まりだが、その「お世話係」として参加し、戦場体験の聞きとりをつづけてきたビルマ戦研究者がいる。それが遠藤美幸さんだ。 【写真】日本軍兵士が「死んだら靖国神社には行きたくない」と懇願した理由 家族でないから話せること、普段は見せない元兵士たちの顔がそこにある。『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)から、その一端をご紹介したい。世界中がキナ臭い今、戦争に翻弄された彼らの体験は何を教えてくれるのか。 本記事は、『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)を抜粋・再編集したものです。
本当のことを話せばいいってもんじゃない
戦友会などで、「ジャワは天国、ビルマは地獄、生きて帰れぬニューギニア」とたびたび語る元兵士たちに出会う。兵士の運命は行った先の戦場で決まるのだ。しかし兵士は戦場を選べない。行き先を知らされずに数多の兵士が海を渡った。途中、敵の魚雷攻撃で海没という憂き目に遭うことも珍しくなかった(*1)。元兵士が軍隊をもじって「運隊」という所以である。さりとてすべてを「運命」だとするにはあまりに忍びない……。 実際に、ジャワは「天国」だったという記憶をもつ元兵士は多い。1942年3月、日本軍はジャワ島の戦いでは敵前上陸。「オランダ軍を追っ払ってやったから現地人に喜ばれてね……」と緒戦の「勝ち戦」を七十数年経ても笑顔で懐かしむ元将校もいた。ボルネオ島のサラワクでは、ほとんど空爆も戦闘もなく、「やることがないから毎日釣り三昧の生活だった」と楽し気に語る軍属もいた。 一方で、インドネシアと地理的に近いパプアニューギニアでの戦場は最悪だった。なんたって「生きて帰れぬニューギニア」。それどころか「遺骨も戻らぬニューギニア」なのだ。あの「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる漫画家・水木しげる(1922~2015年)は、ニューギニア・ラバウル戦線の希少な生き残りである。二等兵の水木は上官のビンタの猛襲に耐え、激戦で左腕を失う不運に見舞われるが、幸運にも生きのびる。戦後、飢餓とマラリアや赤痢などの病気や深傷で死に逝く哀れな兵士の姿と戦場の不条理を戦争漫画に描いた。
「地獄のビルマ」の実態
さて、「地獄のビルマ」とはいかなるものか。 生きて帰れるといっても、生還率は三分の一。ビルマ戦では、約33万人の兵力が投入され、19万人以上が生きて帰れなかった(*2)。元兵士たちは「わしらの両脇には死んだ戦友がおるんだ」と両腕を振って語る。実は、戦闘で死んだ兵士は少数派。戦死者の8割近くがマラリア、赤痢、脚気、栄養失調などが原因の餓死や傷病死で、彼らの大半が戦争神経症を同時に患っていたという(*3)。なかでも補給を無視したインパール作戦(1944年3月~7月)の敗残兵の消耗は甚だしく、ジャングルの中で動けなくなって座り込んだらそこが死に場所になった。 ある朝、同じ部隊の兵士が「今日は前を歩くから……」と笑みを浮かべてトボトボと先に歩いて行った。その後ろ姿を見送った同年兵はイヤな予感がしたそうだ。案の定、先に行った兵士は木に寄りかかるようにして息絶えていた。 「こんなジャングルで死ななくてはならない無念なわが身を、せめて同年兵の私に看取ってもらいたかったのだろう」 北ビルマのフーコンの雨期の雨量は尋常ではない。高温多湿のこの辺りは遺体の白骨化がすこぶる早かった。現地ではフーコンは「死の谷」と呼ばれる。三八式歩兵銃や防毒マスクや鉄帽などの軍装備は栄養失調で衰弱した身体には相当こたえる。銃剣を杖にする兵士もいたが、装備を軽くするため捨ててしまう者もいた。それでも最後まで……死んでも手離さなかったのが飯盒だった。 「彼の目や口や鼻、穴という穴に蠅が真っ黒にたかって、蛆がボロボロこぼれ落ちてきて……こっちも体力もないから埋めてやることもできなくてね、小指を軍刀で千切って持ち帰るのが精いっぱいだった。それもいつのまにかどこかに落としてしまって持ち帰ってやれなかった……」 戦場では、遺体を焼いて骨を拾うのではなく、指を切り取り、飯盒炊さんの時に焼いて骨にするのだ。 さらに兵士を看取った同年兵は語った。 「遠藤さん、何十年も前だが、慰霊祭で彼の身内に会ってもね、本当のことは話せなかったよ。何でも本当のことを話せばいいってもんじゃないんだ」 事実だけが「真実」ではない。本当のことが話せない、あるいは嘘をつかざるをえない、そこに「真実」が隠されている。そして「真実」を明らかにしたからといってそれで終わりではないのだ。事実を探求する歴史研究者の端くれとして肝に銘じておきたい。 20代から30代の若い兵士らが飢えと傷病に身も心も蝕まれ、道なき道に白骨化した屍を累々と重ねる惨状は、間違いなく「生き地獄」である。兵士たちはインパール作戦の退却路を「白骨街道」あるいは死んで靖国神社で会おうという意味で「靖国街道」と呼んだ。忘れてはいけないのは、これは日本兵に限ったことではないということだ。ジャングルには英印兵も、時に現地住民の屍も散乱していた。屍に国籍も民族も階級も性別も年齢も関係ない。 木に寄りかかって死んだあの兵士は、生前、同年兵に「死んだら靖国神社には行きたくない。俺は故郷に帰るからお前もそうしろよ」と語ったそうだ。
拉孟戦とは何か
ビルマ戦線といえばインパール作戦。戦史上最悪の作戦と揶揄される、まさに「地獄のビルマ」の代名詞だ。2020年から全世界に蔓延したコロナ禍で日本政府の諸々の愚策を「令和のインパール作戦」と批判するSNSをちょくちょく見かけた。現代でもインパール作戦のネガティブな影響力は半端ではない。 ところで、同作戦の失策(1944年7月中止)の挽回を掲げて、ビルマ防衛作戦の「最後の砦」として敢行された中国雲南省の拉孟戦(1944年6月~9月)となると、その認知度は途端に低くなる(*4)。雲南の戦争がなんでビルマ戦線なの? という素朴な疑問はもっともで、鍵となるのは「ビルマルート」。ビルマルートとは、英米連合軍による蔣介石軍を支援する補給路の一つで、別名「援蔣ルート」。日本軍はこの補給路を何としても遮断し、蔣介石の息の根を止め、泥沼化した日中戦争にケリをつけたかった。そこでビルマルートの重要な軍事拠点として注目されたのが雲南省西部の2000メートルの山上の拉孟。この地は古くからシルクロードとして栄えた交通の要衝だった。ちなみに拉孟とは日本軍が勝手に付けた名前で、現地では松林の山なのでシンプルに「松山」と呼ぶ。 1944年6月から拉孟守備隊約1300名は、物量、兵力ともに雲泥の差の中国軍4万余の猛攻と兵糧攻めにも耐えながら100日余の死闘を繰り広げるが、9月7日に力尽きて「玉砕」した。アッツ島やサイパン島などの洋上の孤島ならいざ知らず、陸続きの山上での「玉砕」は戦史上類がない。最後まで「死守せよ」。これが軍司令部の命令であった。 私は2012年と2019年、2回拉孟を訪れた。200メートル四方の山上陣地の眼下に大蛇の如く蛇行する怒江が流れ、恵通橋という吊り橋が架かっている。山頂からの眺めは圧巻だ。日本を発ち航空機を何度も乗り換え、雲南省に入ってからも滇緬公路(中国のビルマルートの呼称で滇は雲南、緬はビルマ)を車で延々と走り続けた。中国大陸はとてつもなく広い。雲南独特の赤土の山肌が続く。七十数年前もこのような景色を見ながら(といっても夜間行軍が多かったが)兵士らは歩いて、ひたすら歩いて、拉孟までたどり着いた。気が遠くなるような道程だ。2012年に一緒に拉孟を訪れた元兵士の平田さんは「通常装備に加えて40キロの弾薬箱を担いで、滇緬公路の石畳を見ながら黙々と歩いた」と語った。平田さんは初年兵。弾薬箱を降ろして息つく暇なく分隊全員の飯炊きが待っていた。 平田さんは、日本兵と中国兵の最下級兵士の「共通点」を2つ教えてくれた。一つは、自分にかまう時間がないので軍服や身体が一番汚れている。もう一つは、日本兵は全員の飯盒を担ぎ、中国兵は大きな「支那鍋」(当時、中華鍋をこう呼んでいた)を背負っているのが一番下っ端。ある時、川のほとりで支那鍋に出くわした平田2等兵は、とっさに互いの立場を悟ってなんとも不思議な共感を覚えたそうだ。「腹が減っては戦ができぬ」。交戦は二の次で、別々に米を研ぎ、そそくさと部隊に戻った。 * * * (*1)アジア・太平洋戦争における日本の海没死者の数は35万人以上で、日露戦争の戦死者約9万人と比べてもとんでもない数である(吉田裕『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』中公新書、2017年、42頁)。 (*2)全ビルマ戦友団体連絡協議会編纂委員会『ビルマ・インド・タイ戦没者遺骨収集の記録「勇士はここに眠れるか」』1980年、17頁。正確な数は兵力32万8501人、戦没者19万899人。 (*3)藤原彰『餓死した英霊たち』青木書店、2001年、84頁。藤原はビルマ戦線全体の餓死や傷病死を、あるインパール作戦の事例から78パーセントと算出している。 (*4)拉孟戦の詳細については、拙著『「戦場体験」を受け継ぐということ ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』(高文研、2014年)を参照。 * * * さらに、本連載では貴重な証言にもとづく戦争の実態を紹介していく。
遠藤 美幸(ビルマ戦史研究者)